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http://www.google.co.jp/ http://www.tobari-kaikei.com/cgi-bin/login.cgi 更新君 |
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カント 哲学上の対立を統一した 金 私は、自分の思うどおりに生き、それ故の孤独を耐える以上に喜びを迎え、自分の手で作った製本に見入っているS氏の姿が見えるだけだ。S氏は「金」で生涯苦しまれた。しかし「金」の本生を徹底的に見抜いておられたと思う。「と思う」と言ったのは、私自身がその点までまだ辿りついていないからだ。S氏の深い洞察は、「金」はものではない。ものとなることは決してできない、という一言に尽きると思う。
確率 確率とは、私たちの知識が不足していて、確実なことはわからないと認めることであり、自分の無知を相手にするためにつくられた方法なのだ。 科学技術と場の思想 近代人は救済者を失っている。 観念 仮面(ペルソナ)は人格の構成要素(Martin・Heidegger) 私は、出会った人を「その人が演じている役割」として認識し、その人も私をそのように認識します。 画餅 恁縻功夫するとき、生死去来はことごとく画図なり。無上菩提すなはち画図なり。おほよそ法界虚空、いずれも画図にあらざるなし。 もし画は実にあらずは、仏法も実にあらず。仏法もし実なるには、画餅すなはち実なるべし。 (道元全集・画餅・春秋社) 快楽主義 「嬉しくて悦んでいること」や「快楽」や「愉悦」やそういった類と協和するかぎりのものがあらゆる生物にとって善である。 考えるかわりになじみ深い格言に頼るという間違い。格言を用いるどんな人も、少なくとも、議論されているその格言が本当に適用されることを示すことができるべきである。 仮定 議論のために想定されたが、しかし必ずしも信じられていない前提であり、時に前提条件として知られている。何が真であるかを見出すのに役立つ。 家族的類似性(family resemblance term) 必要十分条件によって定義できない語や概念のために、ウィトケンシュタインが造りだした名前。家族の異なるメンバー達は一つ以上の共通の特徴を皆が共有していなくても、似ていると認めることができるという事実に由来する。我々が多くの概念の正確な定義を与えることができなくても、それらを用い、理解できるのはいかにしてなのかを示す。 仮定は無しにしよう 起こるかもしれないことに関する厄介な問いに答えることを避けるために用いられる修辞学的なテクニック。とりわけ政治家は「仮定は無しにしようという動き」を用いがち。 仮説 証拠や反例によって確証されたり論駁されうる言明。仮説が単なる主張と異なるのは、仮設は検証されたり誤りを立証されたりする目的で提出されるという点にある。 含意するimply 結論が前提から論理的に帰結する時、前提は結論を含意する。だが、前提は何ものを推論することはない。 願望的思考wisheful thinking 何かが本当ならいいなということを理由にして、それが現実に本当であるに違いないと信じること。願望的思考は我々と真理との間にベールを置くから危険であり得る。 観自在菩薩 もともと実在しない。全自己をもって仏道修行の立場から見ると、観自在菩薩は自己以外のものであってはならない。その菩薩が般若波羅蜜を行じて渾身=全身で照見すると、自己の五蘊は皆空である。 |
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記号学 記号学 木田 元 本書をお読みくださって、どうも話の辻褄がうまく合っていないと思われたり、このさきどうなるのか気にされたりされる方のために ニーチェや現代哲学について ハイデガーについて 企投され耽落したわれわれ(Martin・Heidegger) 『世界」という名前の劇場に、私たちは投げ出されています。ハイデガーはそれを「企投」と呼びました。企投された私たちは、そこで役割を演じ、それに投入されています。ハイデガーはそれを「耽落」と呼びました。 岸田 秀 教(養) 子適衛。冉有僕。子曰、庶矣哉。冉有曰、既庶矣。又何加焉。曰富之。曰既富矣。又何加焉。曰教之。(論語) 教育 本質を捉える知 他者を感じる力 先頭に立つ勇気 人材育成のための小宮山三原則 (絶対情報学・伊東 乾著・講談社) 技術 自然が持つ様々な必然性や制約を乗り越えるために人間が使う一切の手段 (<反>哲学教科書・ミシュエル・オンフレ・NTT出版) 帰納 真なる諸前提が結論を信ずるよい根拠を与えるが、しかし確実に真であるとは限らないような推論方法。 規定的定義 辞書的定義ではなくて、語や句がいかに用いられるべきかに関する意識的ではっきりした決定の結果である定義。 既得権益 投資の結果に個人的な投資が絡んでいること、特定の結論に達するなら得になりそうなこと。既得権益が発見されるなら、理由と証拠が伝えられる仕方にバイアスがある可能性と、そうしたバイアスへの強力な動機とに注意を払うべきである。 詭弁法 よい推論の諸原理を尊ばずに、見せ掛けの議論に紛れてありそうもない結論をこっそり持ち込む、利口さの誇示。論点回避、循環的議論、多義性による虚偽、形式的虚偽と非形式的虚偽、ニセの深遠さ、レトリックを含む範囲の怪しげな怪しげなテクニックのための包括的語。 議論 結論を支持する理由。これを口論の意味の「議論」の用法と混同してはならない。後者では推論でなくて主張と反対主張が推論よりもはるかに普通である。本書における「議論」は、結論を信じるための理由を与える。これに対して主張は単に結論を提出し、その結論を信じる格別の理由は何ら存在しない。 機根(うまれつき) しかあるに、人根に多般あり。
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暗いところ いつも明るいところだけを見ていたら、暗いところにあるものが見えなくなってしまう。そもそも暗いところにこそ、真実が隠されているのでゃないでしょうか。 ((真贋 吉本隆明 講談社) クオリア
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解脱 インド哲学の目的:あらゆる束縛から自由になること。人間の最高の幸せである。 言語ゲーム 言語ゲームとは、言語と行為とが織り成す世界を意味する。いかなるゲームも、それにさきだって存在する実体の世界を写すのではなく、それ自体がある意味で実在する1つの世界を構成するようにーーーー1つの世界を構成しているのである。そして、そこにおいては、すべてが意味的につながり合っているいる。 形而上 この世のああだこうだを超越した普遍的な事柄 (池田晶子・暮らしの哲学・新潮社) ゲームの理論 このように双方の期待と結果のあり方に関する計算を行うことによって、自分の行為を選択し、相手の行為を予測して、与えられた条件下における最善の帰結を求めるやり方を「ゲームの理論」とよぶ。 形而上学 ニーチエにとって形而上学とは、一口に言ってプラトン以来西洋の全思想を支配してきた思考の形態、すなわち現実の感性的世界を超えたところに超感性的なイデアの世界を構想し、しかもこの超感性的世界をこそ真の世界と見なす思考法のことである。 芸術作品の理解 芸術も言葉と同じようにできていて、文法、構文、約束ごと、様式、規範がある。芸術作品がどういう条件で存在し、どういう条件で現われるか知らなければ、美的な判断はまったくできず、考えることもできないのだ。 権威による真理 問題に関する権威者とされている人がある言明を本当だと言ったことを由唯一の理由として、それを本当だと考えること。専門家は通常は比較的狭い領域において専門家であるに過ぎず、自分の専門外の領域に関する発言は、専門領域に関する発言と同じような真剣さで受けとめられてはならないこと。 「それまで以前の哲学」の多くは「自分の幸せ」を直接追求できると考えていたのに対して、現代思想はそうは考えません。ウイトケンシュタインは、「自分が考えた筋道」を他の人がたどることによって、その人が幸せになるということを想定している。 現成考公案(げんじょうこうあん) 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
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古鏡 こきょう この古鏡のところから、胡来胡現、漢来漢現の事実を見ることができるのであり、仏祖も現お成するという。正伝の仏法は、自己をはなれて他には何者もない(心外無別法)と説く、この鏡のところから、仏祖も親しく見ることができるというのである。
子供 フランスの歴史家フィリップ・アリエスによれば、ルネッサンス期の絵画において子供はまるで「子供らしく」は描かれておらず、「小さな大人」であった。かれらは、大人の服をそのまま着ており、農作業などをできる範囲で負担し、居酒屋などにも普通に出入りしていたのである。子供らしいイメージというものができあがり、子供の入っていい領分とそうでない領分が区別され、仕事をすることなく遊び、もしくは勉学に専念できるようになったのは近代になってからのことであった。(アリエス・子供の誕生・みすず書房) 幸福 好み 言葉を学ぶとはどういうことか(Wittgenstein) 「言葉の意味とは使用である」というのは、「言葉は適切な状況で使用されることによって、その役割を果たすことができる」ということです。 言葉 言葉を学ぶとは、私と他者との絶対的差異性を消すことを学ぶこと、あたかもそこに何の隔絶もないかのような世界の見方を学ぶことではないか、ということである。 言葉 言葉は語る。語られたものの中に、語るという活動はしっかりと守られて残っているのである。純粋に語られたものとは詩である。 さすらい人静かに内に入る 世界と事物に呼びかけて両者の親しみの中心へと
コンテキスト 言葉 ことばへの畏敬は、人間を成熟へと、知的、感情的、道徳的に導くことができる戒律のうち、首位におかるべき教条に伍しうるひとつである。 コンセンサスによる真理 ある言明が一般に同意されているからという理由だけで、それが真であると考えること。これはほとんどの問題について、真理を発見する信頼できる方法ではない。 黒白思考 個々のの場合を全て両極端のうちの1つの事例として分類すること。その時実際は両極端の間で占めることのできる可能な立場が多く存在するのだが。 五蘊 形あるもの(色法)としての地水火風の四大と心法としての受想行識を合わせて五蘊である。 構造主義者 たぶん、ぼくは構造主義者である。「読む力」といったところで、表層的な読みなんかどうでもよくて、その「数学の世界」の構造をどう「読み取る」かが問題だと思う。文章題を「読む」のだって、その世界の構造を「読み取る」ことだと、構造主義者のぼくはかんがえている。 |
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