哲学辞典 (あ〜お)
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甘えの構造  義理人情

「人情を強調することは、甘えを肯定することであり、相手の甘えに対する感受性を強調することである。これにひきかえて義理を強調することは、甘えによって結ばれた人間関係の維持を賞揚することである。義理人情が支配的なモラルであった日本の社会はかくして甘えの瀰漫した世界であった」土井健朗著「甘えの構造」弘文堂
(老舗の流儀・南陀楼綾繁著・幻冬社)



 アドルノテオドールアドルノ・1903−1969)

ユダヤ系ドイツ人で、ナチスによる迫害を逃れて、一時アメリカに亡命して、第二次大戦後の(西)ドイツで大きな影響力を発揮した。
相手の全部を「否定」しようとするのではなくて、相手のどの部分を「否定」するのか考えたうえで、対立し、批判し合うところと、相互理解のための共通基盤とすべきところをその都度分けるというのがアドルフの「限定的弁証法」という考え方です

(知識だけあるバカになるな・仲正昌樹・大和書房)

愛知

それは、何よりも「知を愛する」という態度である。「愛する」とは、好きでたまらないという意味ではない。」「渇望する」という意味、「恋焦がれる」という意味である。つまりこれはソクラテスによってはっきりした形を得たのだが、真理を他の何かのため(たとえば社会的な力を得るため、金持ちになるため、幸福になるため)に求めるのではなく、真理であるため求めるという態度である。
しかも、その真理は、はじめから体系的な学問として、決まっているものではない。すべて自分で問いつづけ、点検しつづけるという行為、態度、行き方のうちに始めて現われる。しかも各個人の思い込みではない。個人が普遍的な知を「恋焦がれる」という構造のうちに、立ち現れるのである。
だから、とくに{philosophos「愛知者=哲学者」(以下「哲学者」をこの意味で使う)}には、倫理的な態度が要求される。真理を求める営みそれ自体の真実性が求められるからである。哲学者は自ら真理であることを信ずることを常識や因習や権威に屈服することなく、そのまま語らねばならないということだ。だがこの要請はなんと過酷なことか。
いまや教会(ガリレオの異端審問・ローマ教会)の代わりにジャーナリズムという巨大な権力
が、真理よりも重要な理念(人権?自由?生命?)をよりどころににして日々異端審問を続行している。この背後には膨大な数の善良な市民がうごめいていることも全く同じ構造である。「地球が回っている」というガリレオの信念が揺らぐことはなかったが、彼は教会にたいして自説の誤りを認めた。そして彼は、、裁判所を出るとき「それでも地球は回っている」とぽつりと語った(と言われる)。
ジャーナリズムの世界だけではない。われわれが生きてゆくうえで、じつは真理はそれほど重きを置かれていない。真理より生きることや幸福になることのほうがはるかに重要なのである。真理は時に必要だが、生きることや幸福になることを妨げないかぎりである。
そして哲学者とは、困ったことに、こうした世の中の「正しい」態度についていけない者、こうした空気に居心地の悪さを覚える者なのである。しかも、大部分の哲学者は、殺されたくもなく、追放もされたくない腰砕けなのだ。私も、ガリレオのように、火炙りになりそうになったら、あわてて「地球は回っていない」と応えるであろう。それにもかかわらず、地球が回っていることを確信しているであろう。ずるく、さもしく、弱く、卑怯な人間であり、それを自認しながら変えることがないであろう。まさに文字通りの意味で「ならず者」なのである。
(哲学者というならず者がいる・中島義道・新潮社)

アフォリズム

アフォリズムとは、あらゆる非本質的なものをまったく締め出し、ただ本質的なもののみを含んだひとつの陳述、ないし箴言である。あるときニーチェは言っている。私の野心は、わずか数行のアフォリズムのなかに、他の人が一冊の本を通して言うことーーいや、それでも言えないことのべることであると
(ニーチェ・マルチン・ハイデガー著薗田宗人訳・白水社)

悪人正機

親鸞の教えで何が特徴かといったら「修行したら、浄土天国には行けないよ」といったことです。そしてもうひとつ「念仏を一度でも唱えれば天国へ行けるよ。ただし実態としてそんなものはないんだよ」と言っているんです。

真贋 吉本隆明 講談社

安藤昌益

「安藤昌益は、我々が聖人君子と思っている人たちをだめだとことごとく喝破しました。なぜだめかというと、倫理的にいいことしか言ってないからだというのです。天然自然を主体に考えたらいいこともいこともあるのが当然であって、悪いことを言わないというのは、それだけで、だめだという証拠だという考え方です。」
「いいことばかり言うやつが増えてきたら、ちょっと危ないときだと判断したほうがいいと思います」
真贋 吉本隆明 講談社

アリストテレス(前383−前322)

アリストテレスは17才のとき、アテナイにきて、プラントンのアカメディアに入学した。アリストテレスは約20年間、プラトンの指導を受けながら、研究生活を送った。
「自然学」それ自身のうちに運動および静止の原理をもつもの(自然的事物)について研究する。「霊魂類」霊魂(プシュケー)とは、生命をもつものすべての生命活動の根源をなすものである。「ニコマコス倫理学」人生の究極の目的(人間にとっての最高善)は幸福である。幸福とは徳(卓越性)に従った霊魂(プシュケー)の活動である。
哲学を築いた人びと・山本新。高文堂出版社)

アリストテレス

アリストテレスの主著「形而上学」の冒頭には、「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」という言葉がある。物事を科学的に考えることの基礎:
「質料因」 物事は何から出来ているか
「形相因」 物事が何であるか
「始動因」 物事の運動の始まりは何からか
「「目的因」 物事の目指すべき終着駅は何か
読書案内 「アリストテレス」今道友信著・講談社学術文庫
       「形而上学:(上・下)」出 隆訳・岩波文庫
(知識ゼロからの哲学入門・竹田青嗣+現象学研究会・幻灯社)



(知識ゼロからの哲学入門・竹田青嗣+現象学研究会・幻灯社)




アウグスティヌス(354年ー430年)


ローマ帝国の属領北アフリカのヌミディア州の小都市タガステ(現在アルジェリアのヌーク・アラス)で生まれた。
父親のパトリキウスはローマ人であり、母親のモニカはアフリカ土着のベルベル人であった。
アウグスティスヌスは哲学者の書物を読み、おおくのことを学んだが、書物のなかに苦悩する人間の救済についての言及がないことについて失望を感じた。
「告白」過去は記憶のなかにあり、現在は直視のなかにあり、未来は予期のなかにある。記憶も直視も予期も、精神のはたらきであるから、現在、過去、未来は、現在の精神の働きのなかにある。
「神の国」
(「哲学を築いた人びと・山本新。高文堂出版社」)

アウグスティヌス

現代につながる内省の思想家

外部に向かうことなく、あなた自身の内部へかえりなさい。内なる人に真理が宿るからである。」(真の教養について)
徹底して自分の心(魂こそ神の光に照らされ、髪の似姿たる理性が住まう場)と向き合い、
そのことによってたしかなもの、疑い得ないもの(真理)に到達しうる。
救いの根拠は神の自由と選びのみにある。このような考え方がルターやカルヴアンに受け継がれる。そして自分自身と対決するこの内省の思想は中世を生き抜き、やがてキリスト的前提を離れて、デカルトをはじめ「主観」の立場を強調する西欧思想にはかり知れない影響をあたえていった。
1困難や問題にぶっかったとき習俗のルールではなく、自分の内的なルールでそのつど
生きようと考える。
2葛藤の中には自分の「自由」というものの本質が示されている
3人は、後悔したり、懺悔したり、また納得したりを繰り返して、「自由」の意味を知るようになる
読書案内 アウグスティヌス・宮谷宣史著・講談社額実文庫
       告白(上下)岩波文庫
(知識ゼロからの哲学入門・竹田青嗣+現象学研究会・幻灯社)

 


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インド哲学

はっきりとした目的があり、その目的とはほとんどの場合解脱です。インド哲学は必ず人間の生き方かかかわる内容をもつ。インド哲学では、人間の究極の幸せを求めた結果、ほぼ例外なく「自己」「我」の探求に向かうことになる。自己の探求は「無我」を説く仏教のテーマでもある。つまり仏教の「無我」は自己の探求から生まれてきた思想である。
(samguha201211.石飛道子)

家のもっとも貴重な恩恵は、夢想をかくまい、夢見る人を保護し、我々を安らかに夢見させてくれること。。。家が、人間の思想や想い出や夢にとって、もっとも大きな統合力の一つであることを示さなければならない。人間の生においては、家は偶然性をしめだし、連続性に一層の考慮をはらわせる。もし家がなかったならば、人間は散在した存在になるだろう。家は肉体とたましいなのである。それは人間存在の最初の世界なのだ。」ガシュトン・パシュラール’(空間の科学) 
(住宅の歴史社会学・祐成保志著・新潮社)

インド仏教哲学史

http://www.iwanami.co.jp/.PDFS/02/5/0221820.pdf

pdf 山口瑞鳳著 東京大学名誉教授  前味30p分

意味

「意味」とは端的に、それがわかることだ。
わかるという「感覚」。
驚くべきことは、人が意味がわかることができるのは、意味があるからだ。
「言葉」とはすなわち「意味」であり、「言葉」の不思議は「意味」の不思議だ。
言葉がなければ生死はない、「言えない」ということなのです。
世界とは言葉であり、言葉こそが世界を創っているというこの事実は、はっきり見えています。
混沌の意味宇宙に居るということであります。言葉以前、命名以前の「全意味」が満ち満ちている

(池田晶子・暮らしの哲学・新潮社)


イデア

イデア」とはギリシャ語で「真の姿」といった意味である。
イデアなるものがどういうものなのか、その内容を具体的に見極めようとしても、さっぱりその答えは見つからない。
そのうえ、こうした立場の相違を乗り超えて到達すべきゴール、すなわち”善のイデア”なるものがはたして見つかるのか、そもそもそれが存在するかどうかもわからない。
(哲学ワンダーランド・貫成人・php研究所)

イデア

そのものをそのものたらしめているところのものが、概念イデア。いずれにせよ、「同じ」
は「違う」の中にこそ存在している。イデアは諸現象のうちに超越的に内在する。
世界すなわち異即同もしくは一即多と、瞬間瞬間そういう感じ。
こうして認識を繰り返しつつ、どこまでも未知の中を進みます。現象を観察しつつ永遠を感受する、もしくはその逆、この行程は無限であり、人は「みんな」旅人なのであります。
(池田晶子・暮らしの哲学・新潮

 イデア

プラトンは存在者そのもの、すなわち存在者の存在をイデアとして把握している。イデアとは多様ななものに対するそのつど一なるものであり、前者は後者の光に照らされてはじめて現象し、かく現象することによってはじめて存在する。
iイデアは統一的一体者として、同時に存続的なもの、真なるものであり、変転するもの、見せ掛けのものと区別される。
(ニーチエV・第2章ニヒリズム・白水社・マルチン・ハイデガー著・訳、解説・薗田宗人)

 いい生き方

自分が持って生まれた運命や宿命というのがあるとすれば、それに素直に生きていくことではないかと。

真贋 吉本隆明 講談社

生きること

思ったとおり 生きること。

裏と表があることが正しいこと。

自分の身を大事にすることが、他人を大事にすることである
(円心寺 村瀬明道尼)

偉大さ

「偉大さ」は「支配」でなく「奉仕から生まれる。

理想を実現することは、人間の責務である。

世界は教えよりも実証を必要としています。

(「思い」と「実現」の法則・ウオレス・D・ワトルズ・イーストプレス

偽りの二分法

あれかこれかの2者選択をせまり、偽りの論証をすること。
哲学の道具箱・ジュリアン・バッジーニ他・共立出版)


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現 うつつ

(a)現世に生きて在ること・現存すること(死・不在と饗応し拮抗する文脈で)
(b)覚めていること(眠り・夢・虚構・狂気と拮抗する文脈で)
(c)熱中・脱魂・夢心地
今日かんがえるほ確固として純一なpresence(隠しだてもなく歴然と現前していること)の意味合いは希薄である。
うつつのーー存在の異多性ーー
(1)なにごともそれと見るためには、一定の隔たりがある。見られるものから見るも者が乗離する両者分離が、何かを現前するための根本前提である。その現出(隠れなさ)が同時に脱去(隠れ)あるようにしてしか、存在は<現れ>ない。
(2)存在の無底・非意味・非言語
その正体を私たちの目にさらすことのない存在に、意味や根拠や目標や起源をみいだすことは不可能である。
(3)存在のアウラ性
存在は、無・不在・死・消滅・などの(虚無語群系)の対立項ではない。つまり、存在は、(存在か無か>という二者択一のロジックが摘用する従来の存在感の、<外>あるいは<彼方>の位相である。存在は瞬間そのもののなかに<ある>ということだ。瞬間とはここでは、ほとんど無ですらない刹那。時間の長短に無頓着間隙をもたぬ時称。けっして直線的時間系列に順列する<今点現在>ではない。
在ることの不思議・古東哲明・勁草書房)

内田 樹

どうして私のような人間に著作権問題のシンポジウムからお呼びがかかるのか謎である。
私は著作権についてこれまでほとんど発言らしい発言をしてきたことがない。
「コピーライツという考え方はよろしくない」ということを時々発作的に申し上げているが、それはロラン・バルトやジャック・ラカン以来の、「私が語っているとき、私の中で語っているのは〈他者である」という「現代思想の常識」テーゼを繰り返しているにすぎない。
だいたい私のところに印税の支払いがくるテクストについていえば、その過半を私は書いた覚えがない。
たぶん私が書いたのであろうことは、文体や行間ににじむ非道な思考から伺知れるのであるが、実のところよく覚えていないのである。
自分がした覚えのない仕事、「今書け」といわれても二度と書けないようなものについて対価を受け取っているわけである。
なんだか「すまない」という気がする。
(帝塚山大学と日本著作権教育研究会共催のシンポジウム「教育現場における著作権問題。)


 ウイトケンシュタイン

言葉の限界が世界の限界である

手稿に残されている次の言葉が示すように、彼にとって哲学的思考は救済を求めた精神の旅を意味していた。
「哲学者は救いの言葉、すなはちその時まで我々の意識にとらえがたくのしかかってきたものを、遂にとらえさせてくれる言葉を求めて努力する。」
(ウイトケンシュタインはこう考えた・鬼界彰夫・講談社現代新書)


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永遠回帰

永遠回帰という思想はニヒリズムのヴィジョンを時間軸にそって展開したものといえる。
現実世界には、永遠回帰から逃れるいかなる逃げ道も逃げ場もないのである。
時間は円環だ、とは永遠回帰思想を別な仕方で言い換えたものにほかならない

(ニーチエ・貫成人・青灯社)

エマーソン

 ・氷の上をすべるには、スピードを出すほうが安全だ。
―「随筆集」―

・互いに許しえない唯一の罪は意見の相違である。
―「社会と孤独」―

・全ての偉人は中流階級から輩出する。
―「代表的人物」―

・教育の秘訣は生徒を尊敬することにある。
―「講和と伝記のスケッチ教育」―

・恐怖はつねに無知から発生する。
―「アメリカの学者」―

全体というのは、一個人の拡大された影である。
―「随筆集」―

・われわれは一人で世の中を歩いている。
われわれが望むような友達は夢であり、寓話である。
―「随筆集」―

・他人のために生きることは容易である。誰でも皆していることである
―「随筆集」―

・文明とは何か?素晴らしい女性の力だ、と私は答える。
―「雑録―女性」―

・文明人は鉄道客車をつくったが、自己の足を使うことを失った。
―「随筆集」―

 ・同じことを知る人達は、もはやお互いに最良の友ではない。
―「代表的人物―偉人達の効用」―

 


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オッカムの剃刀「単純性の原理」

哲学や科学の理論では、必要以上に存在を増やしてはならない。必要がない限り
複数のものを仮定してはいけない。(便利的な経験則)
「他の条件が同じならば」という但し書きが暗に含まれている。
(哲学の道具箱・ジュリアン・バッジーニ他・共立出版)

老(おい)

葉公孔子於子路。子路不対。子曰、女奚不曰、其為人也、発噴忘食、楽以忘憂、不知老之将至也云璽。(論語)

おもう、かんがえる、しる、わかる(哲学という語、学の意義)

「おもう おもふ」思う ことには表面にでないという姿勢がともなう。すなわちそれはおも
おふ(面覆う)内面でのはたらきである。
「かんがえる かむがふ」考うは上代語には用例がないけれども、今日の用法では思うが
情意に渡るのに対して、考えるは知的な作用とみなされている、といえよう。
その「かむがふ」(勘校、勘合)がおこなわれることは、確実であろう。「かむがえ」(考え)
は「むかえ」(向かえ)を含んでいる。「むかへ」「むかふ」は思い考える主体の内面の操作
でなければならない。
「しる」はどこかをあるいはなにかをわがものとし、わが意のままにする行為せあった。その意味
での「領る」「治る」が、とりわけて心で領治するという場面で、狭義の「知る」につらなっていっ
た。
「わかる」はっきりと区別することを「わく」「分く」といった。
いずれにせよ「おもう」「かんがえる」「しる」「わかる」は「くらべる」をふくめて、・・・すべて、それ
は自己ないし主体のはたらきとしてある。
(三枝充悳著・比較思想序論・春秋社)

 「思い」と「実現」の法則

人間の知識には限界があり、無知ゆえに間違いを犯すこともあります
これを避けるためには、魂を「宇宙の魂」と結び付けなくてはなりません。
「宇宙の魂」はすべての存在の源です。すべての存在のなかにあり、すべての存在を行き来して
います。この宇宙の意識は、あらゆる物事を知っています。したがって、人間は宇宙の意識と一
体になることによって、あらゆる知識の泉へと入っていくことができます

あなたはすでに「理想」にむかって歩きはじめている
思いを実現する力は、確実にあなた自身のなかにある
(「思い」と「実現」の法則・ウオレス・D・ワトルズ・イーストプレス)

 

 
 
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