第1章 バイオメトリックス認証と身体
第2章 身体の歴史 第3章 プライベートとパブリックの喪失 4章 テクノロジーと速度 をめぐる時熱
第5章 身体に」きく哲学 思想の若さとは何か
ボロボロの身体に(効いた)西野流呼吸法
私はここ七、八年、西野流呼吸法という深い呼吸をする教室に通っている。通い始めたのき っかけは私の妻の生き生きした様子をみてなのだ。西野流呼吸法は気を足の裏から吸い上げ て体中に巡らす「足心呼吸」を基本とし、これによって全身の細胞を活性化させ、エネルギーを 身体全体に遍満させ、循環させる。 今私は非常に陽性な人間になって元気でポジティブだが、数年前までの私はもっとシニカルで 暗くてネガティブだった。それは明らかに身体性の訓練というか、身体性のゆるみによるもの である。 理論的にはよくわからないのだが、とにかくうれしいとか、わくわくする、何かをやってみようとかいう 意欲が非常に充実するようになったのである。
若さとは何か
呼吸法の創始者の西野浩三主宰は次のように言っている。 「若いときに美しく、若々しいのはあたりまえだ。問題は年齢を重ねていったときに、いつまで 若々しい身体を保てるかということであり、それこそがきわめて決定的に重要なのだ」。(西 野浩三・呼吸力を鍛えるーー西野流呼吸法)
生き生きとした身体こそが、あらゆる豊かさの根源なのである。 このことは身体性とは一番ほど遠く思われる思想の世界、思索、哲学の世界でもいえることで はないのか。カントやヘーゲルの変化で見たとおり、そこにははっきりと身体のみずみずしさと 、そうでもないものとの差を読み取ることができる。
「純粋理性批判」第一版と第ニ版の差
カントの 純粋理性批判第一版の思想は 感性と悟性の合一によって始めて認識が成立し 、この両者を媒介するのが構想力だ。その哲学の一番の根本であるべき悟性をも超えてしま うような能力、生き生きとした躍動的な性格を持つ構想力をカントは第二版では退けていっ たわけである。
私がなぜ、哲学における身体の問題でこのカントの例を出すかといえば、まさにここに、 あいまいさに堪える身体と、そういうことに堪えられななった硬直化した身体の差を読みと ってしまうからなのだ。
自分の思想を体系化するというのは実は弱さだ。思想の体系化はエネルギーの枯渇化を意 味している。非常に抽象度の高い哲学的な思索は、実は身体の生き生きとした身体に支えられ て初めて成立する。
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