文芸辞典 (た〜と)
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  Danny Boy 

Oh Danny boy, the pipes, the pipes are calling
From glen to glen and down the mountain side
The summer's gone and all the roses dying
'Tis you, 'tis you must go and I must bide

But come ye back when summer's in the meadow
Or when the valley's hushed and white with snow
And I'll be here in sunshine or in shadow
Oh Danny boy, oh Danny boy I love you so

But if ye come and all the roses dying
And I am dead, as dead I well may be
Ye'll come here and find the place where I am lying
And kneel and say an Ave there for me

And I shall feel, though soft you tread above me
And then my grave will richer, sweeter be
For you will bend and tell me that you love me
And I shall rest in peace until you come to me
(Oh Danny boy I love) you so.

ダンテ 神曲

私は今夢を見た人のような心地なのだ
 夢が醒めて一切は失せたが
 感動だけは伝わっている
夢にみた面影はことごとく消えたが
 それでも私の心には
 うるわしさがなお滴り落ちる

(ダンテ「神曲」抗議 平川祐広弘著 河出書房新社)

 

高橋康也

「橋がかり」 岩波書店

高橋康也先生は,昨年(2002)年6月24日,逝かれました.はからずも遺著となってしまった本書の構想は,20年前にさかのぼります.演劇論をある構想の下に集成しようというアイデアの基本は,生前の高橋先生ご自身のものです.これにさらに,編者笹山隆先生の手により,その後書きためられた作品のうちから数篇を選択・増補されてなったものが,本書の七部構成です.
 シェイクスピアの劇場に狂言の滑稽を読み,夢幻能の舞台にベケットの登場人物を歩ませる.異なった時代,隔たった場所を自在に行き来し,異質なものを突き合わせて,思いがけない演劇的ヴィジョンを立ち上がらせる.この手法は,ピーター・ブルック,鈴木忠志,如月小春といった現代の演劇人を取り上げるに際しても,グリーナウェイの映像作品について語る折りにも,変わることなく貫かれています.いや,論考エッセイに止まらず,狂言『法螺侍』『まちがいの狂言』,オペラ『光』などの創作戯曲を結晶させたのも,同じ方法であったと言えるでしょう.
 「視野に入る芸術や思想のすべて」に等しく対し,猥雑さや滑稽さ,ノンセンスを織り込んで,一つのタペストリーに織り上げること.そこでは,隠れている既存の価値のあれこれは,例外なく疑われ宙づりにされます.西欧近代に源を発し,「近代以後」もなお解けない逆説の顔をして,精神を自閉と硬直に誘う「近代性」の罠が,やがて演劇的なリアリティを与えられて浮かび上がってくるのです.ハムレットの悲嘆と,ゴドーを待ち続ける舞台の間にわたされた「橋」の上に…….

 本書の執筆期間は,12年におよんだ闘病の歳月を含みます.単行本として上梓されることはなかったとはいえ,この間にまとめられた論文エッセイは厖大な数にのぼります.他方でこの期,日本英文学会会長,国際シェイクスピア学会副会長を歴任され,自らコーディネーターとして参加された利賀村の世界演劇祭をはじめ,観劇にはたゆまず足を運ばれていたことを考えると,まさに驚くべき多作振りであったと言えます.なによりもまず演劇人であられた高橋康也先生の,本書はまさに渾身の遺作です.

web 岩波書店)


 

たてはな

たてはなは、「古今遠近」という原理でなりたっている。「古」(過去)と「今」(現在)という時間の往還と、「遠」(天)と「近」(地)という空間の往還により、一瓶を構成する。空海の言葉「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始まりに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し」
は花の美しさの秘密を解く鍵でもあるかもしれない。
(芸術新潮・2009・10川瀬敏郎

高樹のぶ子  

獣も人間も、あの世もこの世も、想えば想われる、想われればまた想わないでいられない。どちらか一方的に切ることは出来ません。それらは幸せとか不幸せとか、そういう基準では測れず、ともかく在る、成り立つ、それが縁です。
甘苦上海・朝日新聞)

谷崎純一郎

谷崎氏が初期の作品で手ひどい女性を好んで書いたのは、日本のいじけた文明、みじめな享楽を見るに見かねて、せめて文学の世界だけでも濃艶華麗な力強さを表現したかったからであろう。氏が自分の夢を実現するために、女性を手段とした気配は、どの短編にもよくうかがわれる。
(武田泰淳・武田泰淳短編集・影書房)

多田智満子 詩人

草の背を 乗り継ぐ風の 行方かな

草茫々忘れ残せし夢と思へ

むかし父ありき麻服パナマ帽 

むかし母すだれ巻き上ぐる腕白し 

海怖ろし波がつぎつぎと手を挙げて

 (句集 風のかたみ )

大家

一芸に秀でた人に人格者はすくない

作家が大家の風格を持つていたのは、川端康成、谷崎潤一郎が最後の世代といっていいでしょう。現在意識的に大家に近づこうとしている作家がいるとすれば、それは村上春樹だと思います。(ほかに森鴎外・夏目漱石・武田泰淳を大家としています)

真贋 吉本隆明 講談社

高村光太郎
 

道程(処女詩集)

人体飢餓

彫刻家山に飢える

くらふもの山に余りあれど
山に人体なく
山に女体の美味がない
精神の淡白飢餓。
造型の餓鬼。
また雪だ。

「かれは日本の詩というものでは、昇れるだけ昇りつづけた男であった。一度も後退したことはない。(室生犀星・我が愛する詩人の伝記)」

詩作品にも光太郎には意志的な詩が多く、そこに男性的な魅力があるのだが、エロスにおいてもデカダンスの意識においても、官能を超えた意志の姿勢で強く訴えてくる。書もまたこれを反映して清冽の趣きがある。〔幻花山房漫筆・三好豊一郎。小沢書店

飾りを削りとること。情緒に流されないこと。冬のようにきびしく垂直に立っていること。醜悪、悪行、卑しさの見掛けをもっていても、それが自然さに根ざしているかぎり美しい。こういう言葉で圧縮されるものが、高村光太郎の「道程」をはじめとする詩集の中心思想だと言える。
日本近代文学の名作・吉本隆明・毎日新聞社)

高村光太郎の飲み物の詩

(ウーロン茶)

瓦斯の暖炉に火が燃える

ウウロン茶、風、細い夕月

(コカコオラ)

柳の枝さへ夜霧の中で

白つぽげな腕を組んで

しんみに己に意見をする気だ

コカコオラもう一杯

(コーヒー)

するどきモッカの香りは

よみがへりたる精霊の如く眼をみはり

いづこよりか室の内にしのび入る

(リキウル)

一杯の酒(リキウル)に泣かむとす

寒さ烈し

冬の夜の午前二時

わたしたちの自分というのは、むしろ自分でないものによってしか語ることができないものです。

すべて君に宛てた手紙・長田弘・晶文社)

 

 
探偵小説

丸谷才一は、「現実の市民社会と理想の市民社会とを識別するだけの、知的能力がある」場合のみ探偵小説のおもしろさがある、という。したがって、探偵小説の読者は現実と理想の乗離をつねに暗黙のうちに体得できる
論より証拠・谷沢永一。潮出版社

駄作


小池真理子「恋・早川書房」究極の駄作。本作を直木賞に押した選考委員の眼力を疑う。後に小池真理子にあったら、(ぼくの批判はあたっていると言っていた
全部本の話・安原顕。ジャパンミックス


谷川俊太郎(1931−)


この詩人ほど多様なスタイルを自在にこなし、また平明さと深さを自由に往復できる詩人は、戦後詩にあって特に例がない。

何ひとつ書くことはない

私の肉体は陽にさらされている

私の妻は美しい

私の子供たちは健康だ

本当の事を云おうか

詩人のふりはしてるが

私は詩人ではない     (鳥羽1)

ウ”イトケンシュタイン的他者ーわれわれの詩の言語を理解しない者ーにも呼びかけうるという、奇跡的に実現された転回点のうえに立っている。だから詩は、語のもっとも深い意味で、コミニュケーションの形式である

(詩的レトリック入門・北川透。思潮社( 谷川俊太郎・野村喜和夫「ランゲの無限に向かって」

田村隆一

四千の日と夜

僕は幻を見る人ではない

幻を見たかっただけだ

空から小鳥が堕ちてくる

この空も

あの子鳥も

抽象にすぎない

空と小鳥が抽象だったのは

ぼくの不幸だ           (詩と夢について)

「人間の内部には言葉が棲んでいる。腕を切ってごらん。「痛い」って言葉が出t来るだろう。だから、人間は本質的に言葉でできているんだ」と語る詩人は、言葉が存在に先立つことを確信している

       宿題

をつぶっていると

神様が見えた

うす目をあいたら

神様は見えなくなった

はっきり目をあいて神様は見えるか見えないか

それが宿題
城戸朱理・田村隆一・荒地への意思)

種田山頭火 1885−1926

分け入つても分け入つても青い山

ふるさとを忘れがたい夕風が出た

こころ疲れて山が海が美しすぎる

ここで泊まろうつくつくぼうし

 山あれば山を観る

雨の日は雨を聴く

 うしろすがたのしぐれてゆくか

うまれた家はあとかたもないほうたる

てふてふうらからおもてへひらひら

このみちを行くよりほかない草しげる

山頭火の遺墨

それは書のための書ではなく、・・・・・俳書一如の世界

(山頭火、飄々。村上護・二玄社)

 高橋たか子

自分を相手にさし向ける、かつ相手をよく見つめている、ということが、日本人に欠けている。

私の生きたすべては、私が覚えていなければ、誰も覚えている人はない。そもそも誰も知らないのだから。

もう一つの夢

人生は、もう一つの夢だ、と

ネルバルは言ったっけ

男女の愛ってどんなことなのか、存在と存在とをあげての求心的な愛なのだ。

小説は事実を書くものではなくて、フィクションの中で真実を書くもの。

その時その時、その人が生きた実質(いのちの中身)は、その人しか知ることができない。その人の

み知っていて、神のみ、もつと大きく知っておられる。

「インターネットの恐ろしさ。 

思考そのものが薄らぐ。

遊びと真実との見分けをなくしていく。」

「わたしが居なくなるとき

それはわたしが

生きている夢から目覚める時、また

人類の見ている夢の、外へ

私が出てしまう時、そんな

いわく言いがたいこと」
(高橋たか子の「日記」 2005年4月28日 講談社)


高橋源一郎

宮沢賢治の文学が最高。

ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ2005・7・10 週間ブックレビュー出演

代表作

川崎長太郎 「抹香町」「花火」
私小説という哲学・岡庭昇・平安出版)

檀 一雄

在る時は有りのすさびに憎かりき 
なくてぞ人の恋しかりけり

花ならば壷にいけむ
君ならば心に植えむ歌はなくとも

荒海の逆巻く波の悶えつつ
落日の火心たぎりて沈む

(檀 一雄歌集・皆美社版)

ダンディズム(父母の)

きたない身なりは恥だ、まずい食い物は毒だ、と父はいった。
人と別れるときに振り返って手を振るようなまねをするんじゃない、と母はいった。
(浅田次郎・新撰組読本・文芸春秋)


 


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チエホフ Anton Chekhov

「かわいい女」「犬を連れた奥さん」(新潮社文庫)
チエホフの短編のような作品を書きたい。現実を写しながら、人生のあたたかさを見るチエホフ。そのひとみはいつまでも鮮やかだ
。(黙読の山・荒川洋治・みすず書房)

 

乳房

乳首には指ぬきに似たところがある(じゅうぶんにではない)。たぶん乳首は大きな消しゴムを軽く噛んだ端のようだろう。そうだ茶色になったら、眼が二つ余計にできたようなものだ。
私が今までに見た乳首のなかには、赤ん坊に乳を飲ませるために、ひどく引っ張られ、平たくされ、まるで二つの小さな舌のようにそこに垂れ下がっているのもあった。
乳房は、大きな二つの花を、胸に逆さに置いたよう。花のうてなの切口からは、乳色の樹液が流れる。下腹はなお柔らかく、手をおけば気も絶え絶え。

(ブルーについての哲学的考察・ウイリアム・H・ギャス・須山静夫・大橋ふみ子訳・論創社)

中国
 

中国のとてつもない広さ、そうしてどうしても群雄割拠にならざるをえないという国家的宿命を知るためには「三国志」を、あるいは中国近代化のプロセスを知りたければ陳舜臣の「阿片戦争」(講談社)を読むべきであり、現代の中国要人の言葉をウ呑みにすることよりも、はるかに詳しく厳密に中国を知ることができる。
論より証拠・谷沢永一。潮出版社

地下鉄の詩


地下鉄の駅で   エズラ・パウンド

群集の中の亡霊のような顔また顔

濡れた、黒い枝の上の花びら


 詩人は、荒木田守竹の発句「落花枝にかへると見れば胡蝶かな
(The fallen blossom back to its branch A Butterfly)
を念頭に置きながら書き上げたのが、先きの二行詩である。
きまぐれ読書・富士川義之。みすず書房)

彫金作家

鴨下春明 「自然のものは、それだけで完成された美しい形だから、そこにどう自分を表すかが大事なんだ」


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附立法

濃淡で一気に描く
下書きなしで、一気に形と濃淡を描き上げる方法。素早い運筆と、的確な描写力、墨色の豊かさが特徴。没骨法と似ているが、没骨法よりも筆の勢いが重視される。
墨の合わせ方がポイント
少ない筆致で、微妙な」濃淡を描きあげるため、墨の含ませ方がポイントになる。淡墨を含ませた筆の穂先に濃墨をつけて、側筆で描く。
水墨画ノート・基礎・川崎春彦、牧進、石川響、那須勝哉・視覚デザイン研究所)

つげ義はる

つげ義春は川崎長太郎である。川崎の『ふっつ・とみうら』の舞台をたずねる旅もした。つげ義春は溪斎英泉である。『紅い花』のキクチサヨコや『もっきり屋の少女』のコバヤシチヨジの奥には、英泉の藍摺り浮世絵の朱が狂気のように点じられている。
マンガ家である必要はなかったのだと思う。谷内六郎のような絵日記でもよかったし、車谷長吉のような小説でもよかったろう。が、その手にマンガの線と面を切り出し塗りたくる「墨の味」をべったりつけたことが、つげ義春をおもしろくさせた。あの墨の多い場面さえあれば、辛い少年期も変な白昼夢も何だって、たちどころにコマ割りの光景となって復讐のように甦るからだ。
 それが「はぐれたわたし」を頷かせることを思いつかせたのであったろう。
(松岡正剛 千夜一夜)

津村信夫
 

父が庭にゐる歌

父を喪った冬が
あの冬の寒さが
また 私に還ってくる

父の書斎を片付けて
大きな写真を飾った
兄と二人で
父の遺物を
洋服を分けあったが
ポケットの紛悦は
そのままにして置いた



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天啓

人生の真理の数々はわれわれの力によって発見されるのではない。思いがけない瞬間に、何らかの恵み深い天啓が魂の上に降り、その天啓が魂を打って一つの感動を喚び起こし、その感動が、どうしてだかわからないが、心によって思想に変えられるのである
閑適集ギッシングとともに・大塚幸男・第三書房)

寺田 透

ひとが専門をえらぶにはちがいないが、かなりの程度専門はひとをつくるといって言っていいのではあるまいか


使う道具も考えの進め方もできるだけ確実なものをえらび、分からないことがあったらより単純なより確実な一つ手前の段階にことを引き戻すといふ、ものを考える上での態度は数学によって教えられたと言える。
足跡展望 寺田透・人生数学同形論

寺山 修司

父の遺産のなかに数えん夕焼けはさむざむとどの畦よりも見ゆ

マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

叔母はわが人生の脇役ならん手のハンカチに夏陽たまれる

(寺山修冶著作集1クインテッセンス出版社)

ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん

一本の樫の木やさしそのなかに血は立ったまま眠れるものを

売りに行く柱時計がふぃに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰を探しにくる村祭り

(俵万智選 寺山修司 斉藤慎爾の世界 柏書房)

チエホフの祭りのビラのはられし林檎の木

  かすかに揺るる汽車過ぐるたび 

(中井英夫 さむき視野 寺山修司 斉藤慎爾の世界 柏書房)

 

 

 



書物

書物は、価値そのものでなく価値の代替物であるという点で、貨幣に似ている。しかし、「読む」ことのよって体験を理念変え、「自分自身であること」を「自分自身であろうとすること」に変える。

数字

数字は何で出来ているのか
それは月光にぬれた法則たちのパーティなどではない。不動の定理の戸籍簿でもない。ひそかなる鬼の暗号なのではないか。

旅  

人生は汽車に似ているな。旅をしながら年老って古くなってゆく。自由になりたいな、って思うが、レールの外に出れる訳じゃない。

魂  

地下鉄の
鉄骨にも
一本の電柱にも
ながれている血がある
そこでは
血は
立ったまま眠っている

( 両手いっぱいの言葉(新潮文庫)「名言集というのは、言葉の貯金帳なのね」

麦藁帽子

ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駆けて帰らむ

わが夏をあこがれのみが駆け去れり麦藁帽子被りて眠る

ひとよりもおくれて笑うわれの母一本の樅の木に日があたる

(寺山修司。青春作品集7・少年歌集 麦藁帽子・新書館)


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杜甫

江碧鳥入逾白

山青花欲然

今春看又過

何日是帰年

トルーマン・カポーティ

 Truman Capote

特命全権大使米欧回覧実記
久米邦武編
英吉利国ノ部


視察団はイギリスの繁栄に驚愕し、その富強ぶりを昔からだと当初は錯覚したのですが、調べなおし、・・・・
そして日英の差は「僅かに四十年に過ぎざるなり」と結論づけたのです
(文化力・川勝平太・ウエッジ)

土岐善麻
 

電燈を 一つ明るく 部屋に吊り 家族より集い 縫い読み語る


陶淵明


人生似幻花 終当帰空無


得意


得意とは「何が欠落しているかを知り尽くしているから自克できる能力」のこと。得意な領域があればこそ、自分が不得手なこともわかる。そこから「得手」になっていく方法を見いだそうという発想が生まれ、実践していく。
デザインは言語道断・川崎和男。(株)アスキー


読書

問題とするに足る何らかの意味において読書する人々は、極めて少数である。
書物の印刷が明日すべて停止したとしても、何ら痛痒を感じない人々の数は莫大である。
最も価値ある書物の多くは永い間かかってやっと数百部が捌けるのみである。
要するに、重々しい文学書を生活の必需品と看做しているような男女は、大英帝国を隈なく探し集めても、アルバート・ホールに楽々と収まるとみて間違いあるまい

(ギッシング)
閑適抄ギッシングとともに・大塚幸男・第三書房)


読書
 

読書は無形の設備投資である。最初ひと思いに無駄使いせよ
私のひいきの著者。長谷川慶太郎氏、つぎに氏のほめている竹内宏氏。竹内氏の高く評価している小宮隆太郎氏や飯田経夫氏。
読書は、読んだ内容を全部覚えられるようなものではない。内容そのものより、内容を包み込んでいる著者の味わい、ニユアンス、雰囲気といったものによって、実際は読書しているのである。
解説書・入門書に気兼ねするな。
知恵を磨くのに格好の書物がある。E・Sガードナーのペリーメーソンシリーズ。
プラトン全集
若い人の書いたものに嫉妬するな。
論より証拠・谷沢永一。潮出版社

外村繁


見せばやな 小島の海女の 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかわらじ

著者の長編絶筆 一人の小説家がいかに生き、性欲と愛情の世界をいかにみつめ、また不治の病にいかに対処したか   

(濡れにぞ濡れし・ 昭和36年10月10日 講談社 装幀 村上豊)


土門 拳


「風貌」を見ずに日本人は語れない。「古寺巡礼」を見ずに日本は語れない。「ヒロシマ」や「筑豊の子供たち」を見ずに、戦後は語れない。と河谷史夫は「読んだふり」(洋泉社)で語る。

遠山慶子

ピアニスト 「ドビッシー とラベル」 カメラータ・トウキョウ 

遠藤周作氏推奨

徳田秋声

町の踊り場」短編小説・私小説・読み終えた者はなんとも言いようのない荒涼感と、そのなかで高揚する生命をおぼえるのだ。百年の風である。今でも吹いている。われわれもそのなかにある
(古
井由吉・半日寂寞・講談社)

通り雨

通り雨には風情がある。「裾乱す 脛の白さや 通り雨
(森本誠一・写真俳句のすすめ・スパイス社」

 

 

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