文芸辞典 (ま〜も)
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貧しく生まれる幸福

私はこの世の富に与ることが少なかったから、人生を人生のために愛してきた。あるいは恐ろしくあるいは魅力ある赤裸々な姿において、あるがままの人生を愛して来た。
クレタの老女は付け加えていう。わたしどもはこの人生を愛します。なぜと申しましてあの世は闇、その闇のなかに人が撒いた作り話がぱらぱらとあるにすぎませんから
アナトール・フランス・「花咲く日」)
閑滴集ーギッシングとともに・大塚幸男・第三書房)

正岡子規
 

家の内に 風は吹かねど ことわりに 争いかねて 梅の散るかも

庭なかの 松の葉におく白露の 今か落ちんと 見れども 落ちず

夢さめて 戸いまだ明けぬ 閨のうちに 蝉鳴く聞こゆ 日和なるらし


松尾芭蕉


姥桜咲くや 老後の 思い出

月をしるべ こなたへ入らせ 旅の宿

比喩や見立てを俳諧の本義と解していた時代

枯枝に 烏のとまりたるや 秋の暮

芭蕉野分して盥に雨を 聞く夜哉

談林の風を脱して蕉風に眼を開こうとする正に過渡時代の代表作
よく李甫の詩腸を探り、寒山拾得の禅骨を體して、その精神を俳諧にうつそうとした抱負があきらかに窺がわれる。

道のべの 木槿は 馬にくはれけり

山路来て 何やらゆかし すみれ草

「俳諧は只今日の事目前の事にて候」芭蕉

古池や 蛙飛び込む 水の音

然るを山吹のうれしき五文字を捨てて、只古池となし給へる心こそ浅からね」支考
山吹や 蛙飛び込む 水の音 其角がつけた山吹やの五文字)
山吹やでは其角らしい花やかさはあるが、畢竟写生以上の何物をも言いあらわし得ないであろう。

この道や 行く人なしに 秋の暮れ

よく見れば 薺花咲く 垣根哉

花の雲 鐘は上野か 浅草か

旅に病んて 夢は枯野を かけ廻る

詩に痩せ旅に痩せて一生を終わった芭蕉の最後の句として深い感銘を覚える。
(名句評釈・え原退蔵・講談社)

松尾スズキ

宗教が往く(マガジンハウス)


丸山健二


「争いの樹の下で」:十年に一度の秀作・新潮社。
日頃の僕の怒りを代弁した小説で、胸がすっとした。五十年戦後文学の中でも、間違いなく「ベスト10」に入る秀作だと思う。
丸山健二は、村上龍と並んで、世界の現代作家と拮抗し得る数少ない実力派。「水の家族」「さすらう雨のかかし」「見よ 月が後を追う」。
「荒野の薔薇おのれの肉体のみを頼りとして 庭作りに没頭し始めたとき、千言万語を費やしたところで語り尽くせなかった真理が、草木のなかに余すところなく表現されていることを悟るのだ」
ぜんぶ本の話・安原顕。ジャパン・ミックス

幕切れ

久世光彦氏が森繁久弥の語りとして
「何百回やっても、幕切れは緊張します。満場のお客さんとの間の呼吸というものは、その日によって様々に違います。微妙に違います。だから単純に、立ち止まり振り返って何秒で(切れ)の台詞を言えばいいというものではないのです。あるひは5秒、あるときは10秒、日によっては1秒の間もなくーーー芝居は生きているからです。その間合いを量るのが、至難の業なのです。

1秒の狂いがあっても、それまでの芝居が台無しになる。ーーーー緊張します。」「気持ちよく幕がが降りた日は、役者をやってきて、よかったと、しみじみ思います。役者の気持ちと、お客さんの気持ちが、抱き合うみたいに一つになる嬉しさです。<恋>の気持ちに似ていると思います。何百人のお客さんの一人一人と、最後の幕切れの瞬間に力いっぱい抱き合えたと思うと、体が震えて泣きたくなるのです」

大遺言書・久世光彦。週間新潮16/7/15

幕開け


森繁劇団の毎日開幕の前と、開幕の後にみんなで歌う劇団歌があつた。

ああ歓びも 悲しみも
苦しみも胸に秘め 胸に秘め
ベルが鳴る鳴る 幕開きだ
昨日を今日に 実らせよ
生きとし生ける この世なれ

作詞作曲森繁久弥だった。森繁さんも、もう一度スポットライトの中に立つ日がきっとある。と結ばれている.。
大遺言書・久世光彦。週間新潮16/7/15

松山

「建築はほほえむ ー目地 継ぎ目 小さき場」 西田書店

 街角

街角を曲がった途端、未知の風景と人の生活がある。「その角を 曲がれば 風の香る街」
森村誠一・差真俳句のすすめ・スパイス社)


三岸 節子

バルザックは次から次へと借金の催促に作品を書いたが、私は家族との生活維持のために作品を作る。ただ誠実に全努力を作品に傾けつくしてきた。ちょっぴり芸術の魂の方も満足させて・・・・。女としてここまで生きつづたヴァイタリティ。負けじ魂、闘争心。これで失敗もし、また成功もしている。満足しない私のヴァイタリティは孤独に耐えかね、仕事、仕事と働き続ける。
(三岸節子仏蘭西日記・カーニュ編。リーヴル刊)

 

道綱母(平安中期歌人)

嘆きつつ 独寝る夜の あくる間は いかに久しき 物とかは知る(拾遺和歌集)

絶えぬるか かげだに見えば 問ふべきに 形見の水は 水草ゐにけり(新古今和歌集)



源 頼政(平安後期ー鎌倉初期の歌人)

庭の面は まだかわかぬに 夕立の 空さりげなく すめる月かな(新古今和歌集)

埋木の 花咲くことも なかりしに 身の成る果ぞ かなしかりける(平家物語) 

 

 

 


見立て

「なんの変哲もないタダの石ころ」は、その「生」の拒否感ゆえに、かえって私たちの記憶や想像力を激しく揺さぶってきます。
一個の石のフォルムのうちに、大いなる山の姿を見てとる。これは、いわゆる「見立て」の美学です。
(崇高の美学・桑島秀樹・講談社選書メチエ)

未亡人

一年の未亡人と

一日だけの未亡人との

違いは大きい。あれが同じ人だとは

どうしても信じられまい。

一方は人々を遠ざけ、片方は千の魅力を備える

(ラ・フォンテーヌ・ 寓話・沖積舎)


水芭蕉

水芭蕉かがやきひらく遠雪崩

 

小林黒石礁 


 

村上隆

芸術家が夢見ること。
それはこの身が滅却しそのまた遥か数百年後の未来の美術館。
そこに「今」現代の作品がずらりと並ぶ風景の中に立ちすくむこと。
つまり、ぼくは未来のぼくのような人に向かって、「今」を刻印する任務を突き付けられている、理想やファンタジーではない、現実の「今」です。
(1)構図(2)圧力(3)コンテクスト(4)個性
これが現代美術を見る座標軸、っつまりルールです。
(芸術闘争論・村上隆。幻冬舎)

紫式部

源氏物語和歌集 朝顔 より

とけて寝ぬねざめ淋しき冬の夜に結ぼほれつる夢の短さ    光源氏

見しをりの露忘らねぬ朝顔の花のさかりは過ぎやしぬらむ   光源氏

こほりとじ石間の水は行きなやみそら澄む月の影ぞ流るる   紫上

向田邦子

目利きの山本夏彦氏が(向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である)と書いているのを読んだことがある。私なら、こんな風に言われたら、うれしさのあまり死んでしまっただろう。
〔触れもせで・久世光彦・講談社)

室生犀星

「叙情小曲集」 

津村信夫・立原道造・堀辰雄・釈超空・千家元麻と会った軽井沢の日々等、犀星が出会った詩人たちについて「婦人公論」に掲載した文章をまとめたもの。
北原白秋・高村光太郎・萩原朔太郎・山村暮鳥・百田宗治・島崎藤村の11人。
野口米次郎・中原中也・宮沢賢治・中原一政の詩にも惹かれていたが、その個人の生活が不分明であり起稿は不可能であったとあとがきにある。
(我が愛する詩人の伝記(日本ブッククラブ))

室生犀星

寂しき春

したたりやまぬ日のひかり

うつうつまわる水ぐるま

あおぞらに

越後の山も見ゆるぞ

さびしいぞ

 一日もの言はず

野にいでてあゆめば

菜種のはなは波をつくりて

いまははや

しんにさびしいぞ

(詩に誘われて・柴田翻・ちくまプリマー新書)

村上春樹

短気な僕は、作家村上春樹は早くも見限ってしまったが、翻訳家、アメリカ文学研究者としての彼の仕事については、いまなお高く評価している。「バビロンに帰る」S・フィッツジェラルド(中央公論社):村上春樹のコメントが面白い。
ぜんぶ本の話・安原顕。ジャパン・ミックス)

村上龍


「ヒュウガ・ウイルス」:毒・パワーともに申し分のない力作。
「あなたがいなくなった後の東京物語」(角川書店)内容はハード。
/日本て心和むものはけっこうあるんだけれど、心ときめくものってなにもない/
ぜんぶ本の話・安原顕。ジャパン・ミックス

村上鬼城

いささかの金ほしがりぬ年の暮れ

馬に乗って千里の情や青嵐

干鱈あぶりてほろほろ酒の酔に居る

村上一郎

「日本のロゴス」

村瀬 明道尼

ほんまもんでいきなはれ
ホンマモンデイキナハレ

月心寺での料理

I
文化出版局 1983/12出版

月心寺

精進料理を供する同寺では、茶をたて、料理にも本井戸にたまった水が使われている。「この辺りは、山からの水が枯れたことがありません。室町時代から、滝の水は落ち続けているのでは…」と村瀬庵主が、思いをめぐらせた。
 関雪の住居跡「白沙村荘」=京都市左京区=に残る庭の優美さとは対照的に、月心寺の庭は厳しさが全面に表れている。「この庭のたたずまいは、関雪の好みではなかったといいます。でも、荒れるにまかせるのは、しのびないと手に入れたと聞いています」と村瀬庵主。画家が残した2つの庭を見比べるのも楽しい。

(2005年7月10日NHK放送で「思ったとおり生きること)

村野四郎

塀のむこう

さようならあ  と手を振り

すぐそこの塀の角を曲がって

彼は見えなくなったが

もう 二度と帰ってくることはあるまい

 塀のむこうに何があるか

どんな世界がはじまるのか

それをしっているものは誰もないだろう

言葉もなければ 要塞もなく

墓もない

ぞっとするような その他国の谷間から

這い上がってきたものなど誰もいない

 地球はそこから

深くかけているのだ

村野四郎の世界は意識の世界です。詩は単なる叙情ではなくて、さらに深い実在の探求であるのです

(金子光晴・愛唱詩歌・作詩法入門・久保書店)



名作

渋江抽斎 (森鴎外・)
即興詩人(森鴎外

 

 


 

名著

「フランソワ・ヴィヨン・生涯とその時代」上下2巻ニール・シャンピオン著
フランソワ・ヴィヨン全詩集・佐藤輝夫訳・河出書房新社
[司馬遼太郎・アメリカ素描・新潮社」アメリカの旅行を機会に、「文明と文化」について考察した名著。
(サヨナラだけが人生だ・安野光雅ほか・恒文社)
 鬼才「荻野清著作集」
中村俊定校訂「芭蕉俳句集」(岩波文庫)
「蕪村全集」
講談社の歴史に残る記念碑・紙つぶて・自作自注最終版・谷沢永一・文芸春秋)
「神殿か地獄か」長谷川堯著・鹿島出版会
(大正期の建築家:たおやかな装飾性と豊かな質感、やさしい表情:後藤慶一等
昭和期:前川國夫、丹下健三等合理主義、機能主義、
藤森照信・日経・半歩遅れの読書術)

 名文

「常山紀談」

「記述の文は簡にして切ならんことを要す」
森鴎外

 


 

森 澄雄

在りし日の妻の声あり牡丹雪

除夜の妻白鳥のごと湯浴みおり

磧にて白桃むけば水過ぎゆく
カワラ

はるかまで旅してゐたり昼寝覚

妻がゐて夜長を言へりそう思う

寺あれば花ありて行く花遍路

俳句に遥かな思いがない。いまの俳句は、知恵だけでものの本質を見ないで作るから浅いんです。人間より自然のの方がよっぽど大きい。自然の声を聞きなさい。向こうから貰いなさい。知恵や理屈で俳句を作っても駄目です。人間の遥かな思いを俳句に詠むことです。
現代俳人の風貌・毎日新聞社・2001・7・15)

没骨法

柔らかくのびやかな表現
線でくくる

モダンアート

「外国産のモダンアートに、じめっとした湿度を加えたもの。それが日本のモダンアートだ」詩人小野十三郎の名句。
もしも例外をあげるとすれば、例外中の例外が岡本太郎かもしれない

(日向あきこ・版画芸術・1998・101・阿部出版)

紋切り型への攻撃

すなわち、それは、紋切り型が例外的な特徴をそなえているからでは全くない、というのはそれが韻律や脚韻やジャンル(や家庭)と同じようにしてつくられたもので、ある種の思想に応ずる一定の実際的な領域に属するからである。それはただ紋切り型がより短いので、劇や抒情詩や、もちろん家庭より遥かに何層倍も、説明しーー判断するーーのが容易だからである。たとえば、嫌らししさの点ではかかわりのない人物があまたある中で、たまたま手近にいるものがわれわれのもっとも忌み嫌う人物になることよくあるのと同じなのだ。
常套句と同じようにドニやジャックが陶酔する自由とか正義がどんなものか正確には決してわからないのである。
・・・・なぜなら、その力のあるところはでは言葉は目に見えずに通過してしまい
言葉が姿を現してくるところでは、もはやその力は存在していないということは、もっとも単純な経験がわれわれに教えてくれるところだからだ。
(言語と文学・ジャンポーラン著・「タルプの花」・野村英夫訳・書肆心水社)

 モーパッサン

単純にもモーパッサンは、批評家(と小説家)は、「既成の小説にもっとも似ていない一切のものを探求すべきだ」といった。
(言語と文学・ジャンポーラン著・「タルプの花」・野村英夫訳・書肆心水社)

百田宗治
 

触目

ひとりで生き、この世を観

この世の雨の音をきき

そしてまた死んで行ったとしても

何物
をこの世に残さなかったとしても

それだけで沢山ではないか

その片鱗をかがやかせただけで

蝶はわが眼から失われて行ったではないか


モンテーニュ


「人は誰も自分の前を見るが、しかし私は、私の中を見る。私だけが私の相手である。私は絶えず私を眺める。私の品定めをする。私を味わう。他の人は絶えず外へ行く。絶えず前向きに歩く。しかし私は私自身のなかにころがる。」
内藤濯・落穂拾いの記。岩波書店。)


モリエール


女学者

森井書店


113−0033 東京都文京区本郷6−18−9−102
tel 03−3812−5961 fax03−3812−91    41
振替  00120−7−9466
近代自筆本、初版、限定本、美術、趣味書、山岳書、古典籍

白石かずこ草稿 40 89250円「青空のもとに少年と葬送」

もの

故藤沢修平氏は、作家がものを多く持っているということは恥じである。だが歳相応に自分も持っているものが多くなってきている。これからは持っているものを少しずつ減らしながら、すべてを手放した後に、ふっと消えるように自分の生涯を閉じることができたら幸せだとおもう、というようなことを書いていた。
森村誠一・写真俳句のすすめ・スパイス社)

モダン・ジャズ

コンテンポラリー・ミュージク:既成の倫理が通用しない、すくなくとも「初歩的な」自立度が要求される。
CHARIE CRISTIANモダンジャズの原点
JIM HALL
DEREK BAILEY
高橋信博
(汎音楽集・高柳昌行・月曜社)

 

 

 
 
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