読書余滴 2011.09.02「仏道の創造者 紀野一義編 アー−トディズ刊 戸張道也 空海 弘法大師 「其れ仏法遥かにあらず、心中にして即ち近し。」頼富本宏 述 恵果に密教を学ぶ
空海、遣唐使とともに中国の長安に至る。 インドの僧侶般若三蔵に、梵語、インドの教えを学ぶ。 長安の青龍寺で恵果師と出会い、密教の教えを伝えられる。 灌頂の儀式に師恵果の前で、曼荼羅に花を投げ、大日如来の所に落ちた。 大日如来の密教名は「遍照金剛」。 空海は「遍照金剛」と名前を呼ぶことを許された。 二十年の留学の約束の留学僧の空海は、二年の留学で師恵果の密教を日本に伝えるため帰国する。多くの著書を残す。高野山金剛峰寺を建てる。東寺を拠点にして密教を広める。東寺の側に「綜芸種智院」という学校を建てる。 「即身成仏」の教えとは 1 宇宙世界全体を曼荼羅と捉え、その中心の大日如来の教えを主張する。 2 密教の言葉、真言は単なる伝達ではなく、エネルギー、力を持っている。 3 身体、口、心を使い、早く悟りを得る。 4 聖なる言葉を使い仏の加護を得る。結果を得る。「成就」する。 「弁顕蜜二教論」密教とそれ以外の教えとを比較する。違いが解ることの重要性を主張する。教判と言うことである。 「十住心論」人間の心は一種の曼荼羅である。種々の要素が複合して存在する。そういう心の曼荼羅の中で、階段を昇るようにいいものを求めて上昇してゆく。 「即身成仏」大事なのは自分の心であり、心を大日如来を中心とする曼荼羅の仏たちと結びつけること。「般若心経」を空海は密教的に解釈して「それ仏法、遥かにあらず、心中にして即ち近し」私たちは仏様の世界と結ばれているということを確信する、その可能性を信じることが大切だと説く。「即身成仏儀」 「密教国土」という教理 「四恩」われわれ自身とさまざまな物との関係。父母(家庭)の恩、衆生(社会)の恩。国王(政治・国家)の恩。三宝(佛法僧)の恩。ネッワークの世界。 空海さんの教えを整理すると、他と比較して密教を強調する、教判という教理と、他のことは言わずそれ自体で考えるべき教え(存在意義)教理との二種類。存在意義の教理は垂直の線である「即身成仏」と水平の軸である「密教国土」がある。 「即身成仏」の教えは、我々が大日如来の光の中で生かされている、曼荼羅の中に生かされているということを強調された。その可能性は自分だけのものではない。「即身成仏」を複数化し、この国土を理想の国土にして行くことを、「密教国土」という言い方で表現された。 弘法大師の生き方は聖と俗、動と静という振幅やリズムを持ち、大きな広い生き方をされた。弘法大師の生涯と教えの中に何か私たちに対して、励ましのメッセージが隠されているのではないか思う。
親鸞 「親鸞は弟子一人も持たず候」 山崎龍明 述
幸せとは何か
「人生は苦しみである。苦しみに負けずに生きよ」仏陀のメッセージです。 仏教は人間の幸福学である。幸せとは何か。その幸せを得るためにどう生きたらいいのか。この二つの道を説いたのが、仏陀の教えである。私たちが生きる手段と目的を、鎌倉時代の親鸞さんを通して考えたい。親鸞その人が私たちと同じ日常を生きた人である。だから私が抱える生きていくうえでの問題、あるいは苦悩を、親鸞さんその人も日常の場で抱えていった人ではないか。 九歳で出家し叡山で修業 出家というのは家を捨て、欲を捨て行じて沙門(修行者)となることです。 二十年間比叡山で修業したが、煩悩という内面の問題を解決することができなかった。比叡山を下り、法然上人と出会う。修業の道は尊いけれども、煩悩を無くすことができないという哀しみを自らの中で深め、仏の教えと共に生きるという世界があつても良いのではないかという法然上人の教えに触れる。 波乱万丈の九十年 1260年大飢饉のとき、関東の信仰者達からの質問に対して「親鸞においては臨終の善し悪しをば申さず」亡くなり方の善し悪しは問題としない。大事なことは正しい教えと共に人生をどのように生きるかである。 苦しみと悲しみを糧に 失敗も、挫折も、回り道もそこから新たなことを学んで、尊いものになる。親鸞は八十四歳のとき自分の子(善鸞)を義絶した。その悲しみを乗り越えて、正しい信仰があきらかになった。「よきことにて候なり」という。 三つの大切な教え 「他力本願」自力では、努力してもその通りには生きられない。他力とは仏の真実力であり、その教えに生きることが他力の人生道である。 「悪人正機」自分の中の悪に目覚めた人、悪の痛みを忘れる事のない人のほうが善なる人。「悪なるものの救い」という教え。 「往生浄土」よく生きよく死ぬ道の獲得。仏教は死んでから幸せになる教えではない。今ここで、確かな教えに出あって、苦しみや悲しみを乗り越えて生きる、その幸せが永遠の幸せに繋がって行く。 いのちの学び 1生きとし生けるもの仏性あり。存在するものそのものに光あり、値打ちがある。 2いのちのはかなさ。「老小不定」3いのちの哀しさ。他を奪っていかなければ生きられないいのち「嘆異抄」六章に「親鸞は弟子一人も持たず候」「私は先生で、あなたが弟子であるとは言えない。仏の教え聞いているのだから、仏様が先生で、私も弟子である。」「嘆異抄」第五章に「一切の有情はみなもって世々生々の父母・兄弟なり」いのちはみな、根底において繋がりあっているのだ。存在するすべてのものと、私のいのちは繋がり合っている。縁起ということ。
道元 さとりとは」まどひなきものと知るべし。 紀野和義 述
縄文系のひと弥生系のひと 一万二千年前から日本列島に存在している縄文人、二千年前に中国や朝鮮から列島に入ってきた弥生人 弥生系の人は組織をつくるのが上手。階級意識が強い。権力志向、人間が最高。 縄文系の人は心とか命のないものを人間と同じように考える。一元論。 如浄禅師との出会い 「正法眼蔵」「諸法実相」の巻 中国における、道元の師天童如浄は禅の世界で稀有の人、道元にとって最高の師。 「正法眼蔵」「諸法実相」の巻に師天童如浄の教育の仕方が記述されている。 「天童山安悟ちかきにあり。如今春間、寒からず熱からず、好坐禅の時節也。兄弟如何が坐禅せざる」「杜鵙鳴いて山竹裂く如何」「衆家おほしといえども下語せずただ惶恐せるのみなり」「かのときの普説入室は」「この夜は、微月わずかに楼閣よりもりきたり、杜鵙しきりに鳴くといえども、静閑の夜なりき」時のイメージ 無情説法 「正法眼蔵」「渓声山色」の巻 渓声便是広長舌 山色無非清浄身 夜来八万四千渇 他日如何似人 (東波居士) 東波が悟り得たのは、それよりさき、常総禅師に無情説法の話を聞いていたから。 無情なるものの声、説法が聞こえなくてはいけないことが一番大事なテーマです。 道元のいう「悟り」 「正法眼蔵」「唯仏與仏」の巻 「仏法は人が知ろうとしても知り得ないものである。この故にむかしから凡夫であって、仏法を悟った者はいない。一人仏だけに悟られるものであるから、唯仏与仏と法華経にいうのだ」与は「と」の意味。 それを極め悟る時には、かねて悟りとはこんなものだと予知することはない。事前に予測などしても何の役にたたない。悟りより以前にあれこれ考えたことは、悟りにとって必要のないものである。悟りとは悟り以前に思ったことものなど力とせず、遥かに越えてくるもの、惑いのないものと知るべきである。悟りとは悟りということさえないものだとも知るべきである。 「弁道話」1「ある人が三昧に端坐していると、全宇宙が全部悟りになる」2「これによって生物ならびに全宇宙の衆生がみんな悟りを開き、仏の知恵の働きを開演して行く」3「これらの仏たちと互いに助け合う道が通じたことによって、つまり、例えば、道元様の周りに集まった人がみんな悟ると、お互いに助け合う道が通じたことになってこの坐禅人は確かに、心身脱落してさらに仏としての修行につとめるようになる」4「この時、全宇宙の土地・草木・壁・瓦・石くれなどの非生物までが仏の働きを表すようになり、それに影響されて次々にすべての物が仏の働きを表すようになる」5「しかも、右のような事は坐禅中の主観客観の対立を超えた出来事であって、当人は知覚することがない」 六祖慧能の禅 道元禅師が非常に尊敬した六祖慧能 「本来無一物何れの処にか塵埃を惹かん」この世にある物は本来無一物だ。埃を払うとか拭くとかそんなものが何処にあるか。
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