読書余滴     平成21年12月4日      戸張 道也    

「老人介護 常識の誤り」 三好春樹著 新潮社刊

序章 「介護の時代の本当の意味」

病院の専門職が寝たきりとを作り出している。だからシロウトの介護職こそ寝たきりを起こし、呆けを落ちつかせよう」
現代では元気と病気とはそれぞれの極として存在するに過ぎず、そのあいだが大きくふくれあがっている。健康不安、心の不安、老化慢性疾患、身体障害、精神障害。介護とは一人一人の個別の状態を把握し、個別のニーズを把んで個別のアプローチを創りだしていくものである。画一的なマニュアルほど介護ににつかわしくないものはない。科学的で専門的でありながら、生活と人間関係を大切にする新しい方法論が必要される。近代とは人間を自発的で個別的な関係的生活から遠ざけ、受身的で画一的にしてしまう。

第一章 介護を始めるあなたにへ

シロウトこそ介護に向いている
介護の質を決めるのは家族である。老人介護を家族、女性に押し付けてきたことはとんでもないことであるが、制度が充実して介護の社会化が進んでいけばいくほど、家族の介護に対する考え方や姿勢が大切になってくる。
理由は二つ、医者や看護婦は急性期の方法論しか持っていないために介護には向いていない。介護とは人間とは何か、生活とはなにか、さらに人生とはなにかという哲学的な問いをも含んだものなのである。理学療法士、作業療法士も、「PTやOTの指示どうりに動く人間」でしかないのである。
家族というシロウトこそが介護の質を決めていくのだという根拠の二つ目は、介護とは老人を「患者」にとどめておくのではなく、生活の主体にしていくのだということの中にある。生活はだれにも専門化されることのない一人一人ののものである。シロウトこそが生活の専門家。老人の生活の専門家はまず老人自身であろう。その老人の生活を一番良く知っている家族がそれに次ぐ。
呆けと寝たきり、どちらを選ぶ
しばらくこの本から目を離して考えてみてほしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーじつは迷う必要はない。この二つはセットだからだ。
もしあなたが寝たきりになったとしよう。どんなインテリであったとしても、三年後には呆けてしまっている可能性が高い。インテリほど呆けたときの介護が大変だということは経験的に確認できる。
逆に、もしあなたが呆けたとしよう。するとどんなに身体が強健な人でも、三年後には寝たきりになっている可能性が高い。
呆けが寝たきりとセットになるわけ
呆け老人が寝たきりとセットになってしまう原因は、家に中に閉じ込められること、さらに部屋の中に閉じ込められること、そしてベッドに縛りつけられることにある。生活空間の狭小化。
寝たきりが呆けになるわけ
デイサービスセンターに初めて出席して自己紹介をするときに名前、生年月日を云えなくなっていた元小学校校長先生の例:脳梗塞になった姿を知人に見せたくないと言うう理由で家に閉じこもったまま三年間家族としか対話しなかった。
障害を持たなくても、”先生”や”社長”は老いそのものに弱い。人の介護さへ受けなくてはならない一介の老人である自分と過去の栄光に格差がありすぎるのだ。
家族だけの人間関係が続くと、云う必要がないから言わない、そして云わない状態が三年続くと、たとえどんなインテリでも分からなくなる。生活空間が狭くなり、人間関係も少なくなり、会話、コミニュケーションがなくなる。家族だけの関係では呆けの予防にあまり役立たないということが判る。寝たきりと言うわけではなく、歩行も足をひきずるぐらいで自立していたのである。ところが三年で歩行は覚束なくなり、自分の名前すら口から出なくなってしまつたのだ。

専門性より生活を武器に

閉じこもりがどのように進行していくのか。閉じこもりは「進行性」である。第一段階は家からでなくなること。第二段階は布団から出なくなる。最終段階は自分の世界から出なくなること。布団から出ないということになれば、誰とも触れ合うことがないし、共感し合うこともない。自分自身と会話し始めるのである。現実の触れ合い、現実世界での共感的な触れ合いをつくる。障害老人や呆け老人に必要なのは、普通の生活なのである。普通の生活を作るのは専門性ではない。家族は専門性はないが生活者の常識があった。もし、介護方針について専門家のいうことと私たち生活の常識とが喰い違ったら、生活の側につくべきだ。

第二章 「寝たきり」をめぐる常識の嘘

「福祉機械展」の不思議

そこに並んでいる高額な介護機械の大半は、介護現場では役に立たないのである。現場の私たち介護職がやりたいのは、「入浴介助」であって”人体洗浄”ではない。介護とは、こうした、口に出せないが、その表情によって雄弁に語る老人の願いと、それを引き出したいという介護者の思いとが交差する試行の中に生まれる。
誤りの二つ目は、「寝たきり老人」が実体として大勢存在していると思っていることである。これまで、膨大な予算が、寝たきり老人を寝たきりから脱出させるためにではなく、寝たきりにしたままにするために使われている。
寝たきりの原因を探る
建前上の寝たきり老人をつくる。「寝たきり老人」には毎月手当てが出る。ベッドや介護用品も貸し出してくれる。寝たきりにならないために頑張っている人には何の手当ても貸し出しもないのだ。寝たきりの原因は主体の崩壊である。寝たきりの原因は生活にある。リハビリより大事なのはゴソゴソである。
寝たきりの原因は、家の中、ベッドの中に閉じこもることである。「閉じこもり症候群」と命名。日本医科大学竹内孝仁教授。
人の主体性はバタバタゴソゴソすることから始まる。急性向きの医療者に都合のいいベッドはバタバタゴソゴソができない。「ゴソゴソしてベッドから落ちると危ないから抑制しましょう」「睡眠薬を与えましょう」となる。「立派なリハビリテーションがあって、PT、やOTもいる病院で廃人にされるとは思わなかった」

よいリハビリを選ぶ

リハビリの専門家がかならずしも老いの専門家ではない。
治る人は放っていてもどんどんマヒが回復するし、治らない人はいくら頑張ってみても治らない、というのは現場の専門家ならみんな認めるところである。手足のマヒの回復に関してはリハビリ専門職の役割は消極的な目的であることが多いのだ。
もちろん早期の訓練は必要である。訓練の効果とは手足のマヒについてではない。訓練に出ないでベッドのうえに寝続けていることによる廃用症候群に対する治療および予防の効果である。マヒが治らないのは本人の頑張りが足りないかのように云われるのは正しくない。

老いに順応していく目を

残った手足のマヒは一人一人みんな違う。生活の場で一つ一つ手作りしていくより他にない。老いと障害には近代医学は無力なのである。”健康”と”病人”のあいだに無数の生活レベルをイメージすること、そしてそれを作りだしていくこと、それが高齢化社会に求められていることだ。老人の分野では「早期選別、早期隔離」という誤りを繰り返したくないものだと思う。

第三章 「呆け」をめぐる常識の誤り
第四章  介護は生活づくりだ
第五章 介護は関係づくり
第六章 老人が主体の新しい介護技術
終章 ナイチンゲールの訴えと介護

平均値は何も教えてくれないというナイチンゲールの訴えは画一化され抽象化された人間を、再び、「あの街のあの家屋の何階の誰を」という個別で具体的な人間として取り戻せという現代へのアピールである。
本書は具体的事例を豊富に挿入して理解しやすく書かれています。
家族と介護現場の視点から、老いと介護のテーマに挑戦しています。
近代医療も社会制度も仮説から成立しており、すべてを解決することはできません。個人個人の具体的な生活対応が必要性を説いています。(戸張)

近代医療が敗北した「ねたきり」や「床ずれ」や「呆け」を「生活障害」「関係障害」としてとらえ、ベッド、移動バー、お風呂、トイレ、遊び等を工夫していく技術と思いは、今までにない新しい哲学の展開といえるだろう」(鳥取赤十字病院内科医 徳水 進)