読書余滴 2008/05/08 戸張 道也 道元のコスモロジー「正法眼蔵」の核心 岡野守也著(関東学院大学大学院神学研究科修了) 大法輪閣 平成16年3月
「コスモロジー」:「宇宙」がどのようなものであるかを語る言葉(ロゴス)の体系 1. 序章 「タイトルと本文について」
「正法眼蔵」:しょうほうげんぞう 「正しい真理・教えの眼の蔵」の意 道元(1200年ー1253年)鎌倉時代曹祠宗の開祖であり、法然、親鸞、日蓮、一遍らと並んで、「鎌倉仏教の代表的な存在の一人とされる。 「正法眼蔵」は、その主著である。
2. 道元の生きた時代雰囲気 「無常観」
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。奢れる者久からず、ただ春の世の夢のごとし。(平家物語)
3.家庭的な不幸と時代の混乱
父久我通親(新古今和歌集選者) 満二歳のときなくなる 母藤原基房(太政大臣)の娘伊子 七歳のときになくなる(通説)「慈母の喪に遭ひ、香火の煙を観て、潜に世間の無常を悟り、深く求法の大願をたつ」(三祖行業記)
4. 無常という課題
「ゆく水の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて久しく止まりたる例しなし。世の中にある人とすみかと、又かくのごとし。(方丈記・鴨長明)
無常感の解決:法然は「南無阿弥陀仏」をさらに徹底して、「後生大事」という言葉があるように、今生の絶対化をやめむしろ後生・極楽浄土を重んじることによって、かえってこの世をしっかりと生き延びる、そういう「思想戦略」をとった。それに対して道元あるいは禅は、この世の有り様はそのままであっても、心構えを変えること、違った心構えで世界を観ることによって、この世界、現世をそのまま生き抜くという「思想戦略」を採ったと言っていいだろう。
5. 比叡山で解けなかった問題
「本覚法門」:人間は本来覚りという性質を持っている。生まれたままで覚っている。(比叡山天台法門の考え) 「道元の疑問」:もしそうだとすると、今まで「三世の諸仏」、過去世と現世と来世の仏さまたちはなぜわざわざ悟りたいという心、「発心」を起こして悟りを求めたかということが、道元には疑問になったのである。
6.天童如浄との出会いと帰国
「心身脱落」:心身に対する執着、心身から出てくる執着が抜け落ちたこと。 1223年二十三歳で、道元は明全とともに宋に渡る。天童如浄という高僧に出会うことができ、これだということを掴むのである。その体験を「心身脱落」という言葉で表現している。この心身脱落体験をしたのが二十五歳で、宋に渡った目的をみごとに果たして翌々年、1227年二十七歳で日本に帰ってくる。
7.正法を維持するために
越前の静かな山中に入った。(永平寺)1243年7月、四十三歳である。越前の山中の厳しい気候がこたえたのか、しだいに体力が衰え、1253年八月に、病気療養のため戻った京で亡くなった。五十三歳であった。道元を敬慕する人々の手で、「正法眼蔵」は七百五十年の歳月を経て、今私たちの手に伝えられている。
8.あとがきより
考えること:ほんとうに(考える)または(思索する)というのは、どうするか。「巨人の肩に乗った小人は巨人より遠くが見える」というヨーロッパのことわざがある。「ほんとうに(自分で考える)には、まず、だれか、その人の眼を借りたら世界が見えるというくらいの大型の思想の巨人に取り組むことだ。そしてその人の眼で世界を見ることができるようになった、という気がしてから、その人が見ていない、言っていない、考えていないことが残っているのが見えてきて、それに取り組めるようになったら、それを(自分で考える)というのだ」と。 ( 著者が大学一年生のとき思想書の読書会を指導した山本和先生(キリスト教神学者)の第一回読書会での言葉。) 第一章 道元コスモロジーの核心ー 「 一顆明珠」の巻を中心に
「一顆明珠」:全世界「宇宙」はただ一つの明るく透明な光輝く珠であるという、世界把握の言葉である。(唐代禅僧玄沙の言葉) 「分別知」:個々のものが、「それ自体で、代わることのない性質を持って、いつまでも存在することができるもの」(実体)と見る。 「無分別知」:すべてのものはどこまでもつながり合って存在していて(縁起)、結局は一つであり(一如)、ばらばらなもの(実体)という意味では何もない、(空)と見る。 「無分別後得知」:ただ何もないと見るのではなく、一つのものがつながり合いながら、それぞれの多様な姿を現わしていると見る。一体性あるいは空を体験した後で、もう一度、多様性を見る見方に帰ること。 「諸法」:さまざまな存在、いろいろなもの 「仏道」:仏としての生き方 「万法」:すべての実体 「生佛」:衆生と佛
現成公案の巻より
諸法の仏道なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。 「分別知」 万法ともにわれにあらざる時節、まどいなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく滅なし。 「無分別知」 仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり。 「 無分別後得知」 分別知の世界ではらばらに分離した多様なもの(実体)が佛法の世界だと見る。 「分別知」 すべての存在が我・実体ではない」という体験をしている瞬間には、そういうものの違いは一切ない。 「無分別知」 あるとかないとか、豊かとか貧しいということを超えているからこそ、生滅あり、迷悟あり、生佛ありということになるのだ。「花は惜しまれて散り、草は嫌われて生える」。悟った人は深く感じるけれどもこだわらないという心のあり方になる。 「 無分別後得知」 仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己を忘るるなり、自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の心身、および他己の心身をして脱落せしむるなり。
坐禅を通して、実体化された自己を忘れた時、すべての存在(宇宙)と自己とは本質的につながっているということに目覚める。その時にこそ、全存在と一体である「本当の自己」が発見できる。 「坐禅」: いわゆる佛祖の坐禅は、初発心より一切諸仏の法を集めんことを願う。坐禅の中において、衆生を忘れず、衆生を捨てず、ないし、昆虫にまでも、常に慈念を拾いて、誓って済度せんことを願い、あらゆる功徳を一切に廻向するなり。世々に諸々の功徳を修して、心の柔軟なることを得るなり。(道元の師如浄の言) 道元の著作、特に「正法眼蔵」は、その表現しきれない体験を一生かかって何とか表現しようとし、ぎりぎりのところまで表現できたものだ言えるだろう。
「評言」 難解と言われる道元の「正法眼蔵」を道元のコスモロジー宇宙感として解説した著書です。 あとがきの「ほんとうに自分で考える」ことのエピソードは感動的です。このあと第一章道元コスモロジーの確立ー「一顆明珠」の巻を中心に、第二章道元倫理学の完成ー「諸悪莫作」の巻、第三章道元の死生学ー「全機」の巻を中心に、第四章全肯定の思想ー「諸法実相」の巻と続きます。
正法眼蔵を読み感涙に暮れた禅僧良寛の詩です。 永平録を読む 良寛
春夜蒼茫たり 二三更 春雨 雪に和して 庭竹にそそぐ 寂蓼を慰めんと欲して 良に由無く 暗裏 摸索す 永平録 香を焼 燈を点じ 静かに披き見るに 一句一言 皆 珠玉
中略
箔々 皆是れ 誰が為にか挙する 言う莫れ 今に感じて 心曲を労すと 一夜 灯前 涙留まらず 湿ひ尽くす 永平の古仏録 翌日 隣翁 草庵に来り 我に問う 此の書何為れぞ湿ひたると 道はんと欲して道はず 心転た切なり 心転た切なるも 説き及ぽさず 低頭 やや久しくして 一語を得たり 夜来の雨漏 書笈を湿すと
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